田代幹線

田代幹線も歴史ある幹線系である。
送電線に関しては昭和2年(1927年)竣工のようで、起点は早川第三発電所であり、発電所に関しては昭和元年(1926年)には落成していたようである。
ちなみに同発電所については、つい最近までは(2012年頃まで?)、早川連絡線(1回線で送電電圧は66kV?)の起点でもあったようだが、現在は東京発電の雨畑川発電所を起点とした雨畑線に置き換えられたようだ。
(※早川第三発電所へ通じる県道37号(南アルプス街道)沿いの南アルプス邑ふれあい広場には、丁度その当時、早川第三発電所で使われていたベルトン水車と水圧鉄管の展示物あり。)
なお、早川第三発電所の周辺には、田代川第一発電所と田代川第二発電所があり、2つの発電所で発電された電力は、それぞれ早川第三発電所へ引き込まれている。
ややこしいが、このうち田代川第一発電所から早川第三発電所までは、田代川第一線で、田代川第二発電所から早川第三発電所までは、田代川第二線で結ばれる。
また、田代幹線に関する発電所に関しては、他に早川第一発電所もあり、こちらについては当初は50Hzで東京方面に送電したとあるが、後の昭和3年に、静岡県の浜松方面へ送電を行っていたとある。
しかしこちらも現状は、衛星写真を見たところでは、途中で田代幹線と合流している。
早川第一発電所に関しては、大正12年7月、当時実在の早川電力会社が落成したとある。
同発電所については、現在は榑坪線(くれつぼせん?)の起点でもある。
(※西山発電所を含めて、他にも烏帽子型鉄塔などで早川第三発電所までを結ぶ別の1回線の送電線もあるようだが、それは割と新しめの発電所であったから、今回は割愛する。)
田代幹線の起点は早川第三発電所であり、昭和2年(1927年)の竣工当時については、どうやら途中の変電所は通らず、直接、神奈川県川崎市にある川崎変電所までを結んでいたようだ。
しかし近年は、度重なる電力需要増加の影響で、どうやら田代幹線という名の電線路名は、現在は新秦野変電所で終点となっている。
よって、元あったはずである田代幹線の送電塔、それから現状の電気の流れを追うんだとしたら(あくまで推測)
早川第三発電所→田代幹線→駿河変電所(ここより一時2導体)→新富士変電所(この先で再び1導体に戻る。)→田代幹線→新秦野変電所→東秦野線(→相互接続せず。←)秦浜線→京浜変電所→北浜線→(→相互接続せず。←)←北島線→綱島変電所→島崎線→川崎変電所
の順になろうかと思われたが、東秦野線と秦浜線、それから北浜線も北島線とは繋がっていないようだ。
北浜線は途中、港北変電所を起点とした北旭線(4回線のうちの上部の2回線部分)と合流する。
北旭線の残った下段の2回線については、北島線(2回線)の下に入り込んでいる。
当時物の原型鉄塔に関してだが、これは前述した通り、神奈川県足柄上郡山北町と伊勢原市の先については、大分前に増強で送電塔が建て替えられたようであるから、比較的若番方面に行かないと見ることができない。
確認したところでは、現状、田代幹線の原型は、358号までのようだ。
これについても前述したが、電線路の途中には一部、275kV系統を思わす2導体区間も存在している。
また、358号付近の年式については、何故か23年も若い昭和25年となっているから、そこは注意願いたい。
形に関しては、昭和2年のものとは変わりはないと思われる。
そして、電線路に関しては、富士山を大きく避けながら送電線が進んでいる箇所もある。
他には近年の度重なる電力需要増加の影響で、途中、正規のルートを大きく外れて、ループ送電しながら約11キロも南側にある駿河変電所へ引き込まれている箇所もある。
外れている箇所については、201号鉄塔で大きく昭和2年当時のルートを外れるからか、振り分け番号は201-〇〇号となっている。
駿河変電所を出た後も田代幹線という名の電線路名は続くが、そこから送電線路は2導体となって、正規のルートへ戻り、新富士変電所へ接続されている形となっている。
その新富士変電所に関しては、かつての大同電力が建設した天竜南線や、近代の西群馬幹線などが引き込まれた大規模変電所であることから、2導体化したのかと思われた。
2導体ということは、一部では送電電圧は275kV送電なのかとも考えられた。
次に昭和2年当時の原型の送電塔の形状についてを述べるが、これは各腕金に傾斜があるのが特徴だ。
各腕金に傾斜のあるものに関しては、上毛幹線でも確認済みであるが、そこでは耐張鉄塔を除く他については、中相と下相のみ腕金に傾斜を付けたものを確認している。
傾斜のなかった上相の腕金については、一度取り換えられたような形跡も見られたことから、元は全相傾斜付きだったことも考えられた。(2017年確認現在)
なお、田代幹線では、原型鉄塔であれば、耐張鉄塔、引き通しのI吊懸垂鉄塔問わず、全ての鉄塔で腕金に傾斜のある支持物を見ることができる。
これについては、豪雪地域の家屋の屋根でも見られるかのごとく、雪避けを意味しているのかと推測する。
なお、送電塔も大分古いものであるから、近年では一部で建て替え工事も進んでいた。
その中で、谷底の送電線を支えていた送電塔でよく見ることがあったタイダウンがいし装置については
比較的若番方面に関しては、まだ当時の原型鉄塔が数多く残っており、そこでタイダウンがいし装置を適用したものを撮影することができた。
他の猪苗代旧幹線などと比較すると、タイダウンの現存数も結構多いような気がした。
それではまずは、起点の早川第三発電所周辺から見てみよう。

田代幹線の大元の起点である早川第三発電所の対岸には、田代川第一発電所がある。
写真は田代川第一発電所の方である。後述するが、ここで発電された電力は、早川第三発電所へ向かっている。
なお、この付近では、水の流れる音が「ゴー」と、凄かった。
水圧鉄管のそばを通る配電線のようなものは、保守用のために施設されたものであろうが、凄いところに建てられているのが見えた。
この場合、支持物はもちろん通常の鉄筋コンクリート柱は無理である。
パンザーマストを使用したようだ。

田代川第一発電所の建物は、「日本の発電所 東部日本編 社団法人日本動力協会編 昭和12年8月1日再版」に載っている写真を見ると、当時物のように見える。
屋根上は草木が生い茂っていた。

発電所のマークについては、テプコマークとなっていた。
なお、田代川第一発電所の看板については、社有地にあるため、撮影することはできなかった。

田代川第一発電所〜早川第三発電所までは

田代川第一線という小さな送電線で結ばれ

これが・・・

早川第三発電所兼変電所へ引き込まれている。
なお、早川第三発電所の水圧鉄管については、南アルプス街道を南から望むと右側に見えてくる。

早川第三発電所兼変電所の看板

早川第三発電所の水圧鉄管
勾配が凄かった。

そして、これよりさらに山奥に進んだところにある田代川第二発電所はこのような感じである。
※田代川第二発電所までのアクセスだが、かなりな悪路を通ることになる。
車高の低いセダン車では、普通に底を傷めるから、ジムニーなどでないと少し厳しいかもしれない。
しかし中には普通にライトバンや釣り人のワゴン車も入っていた。
普通車は確実に車体に傷がつくことを覚悟の上、通る羽目になる。

※看板の撮影に関しては、門の間にカメラを合わせて撮影した。

なお、ここから早川第三発電所までは、田代川第二線によって結ばれているようだ。
この送電線の支持物に関しては比較的綺麗であるから、近年建て替えたように見られる。

田代川第二線1号鉄塔の看板

田代川第二線も途中、またかなり険しい山を通過している。
かなりの崖っぷちに立っている。
こういう現場は大変だ。
なお、この送電塔に関しては、早川第三発電所付近で撮った。

保守用の配電線に関しては、田代川第二発電所でも確認できた。

取り付けられている変圧器は、鶴ヶ峰のハンガー装柱でも確認できた旧型仕様だった。

早川第三発電所で、約93年近く使われていた水圧鉄管とベルトン水車の展示物は、県道37号(南アルプス街道)の途中にある南アルプス邑ふれあい広場にある。

水圧鉄管の銘板は、旧管の方では大正15年(1926年)12月とあった。

発電所のコンテンツだけでも大量になってしまった。
次はいよいよ送電線のレポートを書き込む。

ここでは写真左側より、田代幹線 56号、57号、58号の順に並ぶ。
58号については、この先で富士川の横断箇所でスパンが長くなるためか、送電塔の形状は他と見比べると違うのが見て取れた。
田代幹線の送電塔は、原型であれば、各腕金に傾斜があるのが特徴だ。
特に竣工当時は、起点の早川第三発電所付近は、冬になれば道路が封鎖されるほどの大雪であったと記録があることから、その影響を受けて、送電塔も積雪しにくい構成になったのだろうと考えられた。
当時は有人発電所で、相当苦労されていたことが「日本の発電所 東部日本編 社団法人日本動力協会編 昭和12年8月1日再版」に書かれていた。

ここでは各腕金に傾斜を付けたもので、懸垂がいしを振る田代幹線 56号が見えた。

他と比較すると、田代幹線については結構タイダウンが残されている。
こちらは田代幹線 60号

他には、79号と

82号でもタイダウンが確認された。
82号に関しては、単純にやや谷底にある形となっているから、タイダウン装置となっているのかと思われた。
なおここでは、塗装されているものとそうでないものが分かれていた。

79号については、山の斜面に送電線が沿って張ってあり、少しその斜面に入り組んだ箇所に送電塔があって、懸垂がいしが浮きそうであるから、タイダウン装置を適用したように見られた。
それにしても、ヘリコプターが普及していなかった時代に、どうやってここに送電線を施設されたのかが不思議である。
こんなにも険しい山々に建てられるのだから凄いものだ。
まだ車もそこまで普及していない時代だ。
鉄塔の部材や懸垂がいしは、当時は大八車や馬車などで運搬されたのだろうか

こちらは田代幹線 84号
付近には展望台もあり、見晴らしがよい。
その展望台からもいくつかの田代幹線が望める。

180度のパノラマ撮影はこんな感じとなった。
iPhone XRで撮影

ここはダイナミックに、大きい写真を掲載しよう!
iPhoneの画質もついにここまで来たか
他には圏外での位置情報の記録など、利点がある。

また、ここでは地面を見ると、1度か2度、いやそれ以上だろうか、落雷によって、逆フラッシオーバーが起きたのか、懸垂がいしのかけらが結構散乱しているのが見えた。
なお、そのかけらは製造年を見てみると、なんと驚きの1926年製であった。
しかしこれは、田代幹線が竣工する時期と比較すると1年早い。
田代幹線は、結構な長距離電線路であるから、建設の話が持ち上がった1年前には大量生産を完了されていたように感じた。
製造メーカーは日本ガイシさんの製造品である。
それにしても、雷の力というのは凄まじい。いくらがいしを丈夫に作っても簡単に壊される。
懸垂がいしのかけらが落ちていた要因についてだが、これは付近の山間を見上げると、頂上に立つ送電塔が見えたことから、何度かその辺の送電塔への落雷によって、懸垂がいしが壊されたのかと考えられた。
確認してみると、後述の85号付近で何度か落雷があったように見られた。
※逆フラッシオーバーとは:架空地線や送電線に雷が落雷した場合は、通常は送電塔を通って地中へ雷電流が放電されるはずなんだが
時として、送電塔の電位が上昇してしまい、送電線路に雷電流が逆流してしまう場合がある。
それを逆フラッシオーバーという。
フラッシオーバーは、放電、もしくは閃絡(せんらく)の意味合いである。

一方こちらは向かいの85号

次いでこちらはさらに奥の方であるが、田代幹線にも一応矩形鉄塔があるようだ。
こちらは89号-甲、乙である。この辺りでは、87号から矩形が続いていた。
山間で強風の吹き付けるエリアについては、矩形鉄塔が採用される。

一方こちらは、さらに奥へ進んだ箇所にある128号

文字が消えかかっており見えにくいが

ここでは昭和2年(1927年)5月建設とあった。

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