大師線(現存せず。)

(辿ってみると、安方線から電源供給の模様)

大師線(送電線)の起点は六郷変電所だろうか?
推測によるが、恐らくそこから地中線路となって、多摩川の直前より送電線が立ち上がって、1号、2号と続いていたものかと考えられた。
送電塔の形については、川の横断箇所は普通の四角鉄塔が目立ったが、その後は京急大師線の線路に沿って上部を通過するため、支持物は門型鉄塔となっていた。
そしてその後は、大師変電所までを結んでいた。
しかしこの辺りは開発が凄く、大規模なタワーマンションが建設されたため、大師線については全て除却されている。
(その後は京急大師線も地下化されるとのことで驚いた。時代の流れには逆らえない。)
その状況下、私が撮った写真については、完全除却寸前の2012年当時に撮影した写真がわずかにあるのみで、大師変電所付近のものは撮影できていない。
撮影地は神奈川県川崎市・京急大師線の港町駅付近だった。
ちなみにこちらも歴史はありそうだ。
なんでも川の横断箇所の送電塔は大正7年(1918年)5月となっていた。
そして、線路上の門型鉄塔(ガントリ鉄塔)は、送電線工事業の情報によれば1936年(昭和11年)に建設されたとあった。(公に公開されているHPで確認済み。)
同路線であるはずなのだが、多摩川を横断する区間の旧鉄塔とは建設年が一致しない。
そして、門型鉄塔も年式を確認したところでは、6年差の昭和17年(1941年)建設とあった。
建設年に大きな差がある要因については、後に東川崎線(現:中島線・渡田線)が途中で大師線と合流する形で建設されたことが大きく絡んでいるのだろうか
だが、東川崎線も建設年を見ると昭和35年(1960年)とある。
それはさておき、まずは多摩川の横断箇所の大師線から見てみよう。

撮影当時、大師線は2号から引き上がっていた。
昔はもっと前にもあったのかもしれない。

大師線2号の看板

子供宛なのだろうが、この看板はちょっと・・・^^;
まるで送電塔が生きているかのように描かれている。

何れとも現存していないが、多摩川横断箇所の大師線を写真でまとめるとこのような感じだ。
ここは川の横断箇所であるから、送電塔も元から背が高かったようだ。
ちなみに左側の紅白鉄塔の大師線3号については、かつては避雷針があったようだ。
ここは周囲に何もないから、雷が落ちやすかったのだろう。
付近のマンションを見ると、普通にしゃへい角度45°から外れている。
しかしそれは、除却寸前の2011年末には取り外されていた。

大師線は多摩川を超えた後は門型鉄塔となっていたが、この先では右方向からやってきた2回線の川崎線と合流していたようだ。
しかし合流は片側1回線のみだったようで、以降、その先の大師線は3回線となっていた。(撮影当時は2回線)
その証拠写真も後ほど紹介しよう。

避雷針があったのはこちらの3号だった。

3号と4号を一緒に撮った写真

なお、大師線4号については

建設年がかなり古く、なんと大正7年(1918年)建設であった。
だが、この鉄塔もタワマン建設の影響で、現在はもうない。

大師線5号の写真も辛うじて写真が残っていた。
ここでは東川崎線と合流していた。
当初は、ここより3回線と思っていたが、違った!
この先、写真の左側を少し進んだところにある2回線の引き込み線を分岐後に3回線となっている。
なお、写真では右側が東川崎線となるが、その方もこの時点で、既にジャンパー開放状態だろうか

そして、大師線の門型鉄塔の建設年は
(当時は撮影が下手で指写る。)

比較的若く、昭和17年(1942年)建設とあった。
(しかし某電気工事店の情報によれば、こちらの年式は1936年(昭和11年)との情報もある。)

続いてこちらが15号
3回線については、これより1基前の14号からとなっている。
※大師線14号鉄塔では、2回線の引き込み線を分岐していたが、大師線(2回線)と東川崎線(2回線)との合流直後に2回線の引き込み線を分岐してしまうと
両方とも停止した場合、使えなくなってしまうので、ここではこの先の大師変電所へ一旦引き込んでから、1回線は予備として逆流させていたように見られる。
なお、撮影当時、その3回線区間については、まだ途中から残っていた。
だが、いずれとも既に死線だった。

さて、大師線の懸垂がいしも古いものだと、まるで付近に化学工場が大量にあったかのような面影を感じる、スモッグがいしを使った区間もあった!
唯ここは、普通に塩害対策用に思えた。
このスモッグがいしは、外ヒダが一回り突き出た旧型仕様である。

15号のプレートはこんな感じである。
建設年は変わらず、昭和17年(1942年)4月とある。

寄り添うカップルの手前に15号の看板

そしてこちらは、仮引き留め用に臨時的に建てられた15-1号だった。
この時点で既にこれより奥の大師線は、除却されていた。

鉄道の上部も通過することから、ここは少しずつ除却を行っていたようだ。
恐らく夜間工事だったのだろう。

既に死線となっているが、それでも臨時的に建てられた15-1号には、いつものプレートがあった。
年式は見ると、平成23年(2011年)3月とあった。
2011年には、既に大半は除却済みのようだった。

臨時鉄塔の看板はこんな感じ。

さて、ここからはずっと前に撮影済みだった、通りすがりで撮影した3回線区間を掲載しよう。
3回線については前述した通り、2回線の引き込み線(その需要家、下記写真に写る。)を分岐した直後から続いていたことから
3回線のうちの1回線については、この先の大師変電所より逆流している予備回線であることがうかがえた。
東川崎線(2回線)と大師線(2回線)との合流後(2回線)に、そのままそこから2回線を分岐してしまうと、東川崎線、大師線のいずれかが停止した場合
両方とも予備回線が使えなくなってしまうので、一度大師変電所へ全てを引き込んでから、予備回線を味の素へ向けて張っていたように見られた。
基本的に送電線というのは2回線張られているが、1回線については予備であることが多い。
ここは両方の送電線が合流したものだから、予備として追加で1回線を張っていたように見られた。

その3回線区間はこんな感じだった。
見た感じ、一番右側の1回線を支持する懸垂がいしが新しいので、そこが一度、大師変電所へ引き込んだ後に逆流している予備回線に見えた。
こちらは大師線13号
写真を撮ることができなかったが、これより1基前で引き込み線(2回線)を分岐していた。

こちらは京急大師線の川崎大師駅の上部通過のため、門型鉄塔は幅広となっていた。

そして、大師線はこの後、塩浜東線とも接続していた。
唯それは、相当前のことのようだ。
京急大師線については、現在は小島新田駅が終着駅となっているが、周辺の埋め立てが進むかなり前は、まるで海沿いを走るかのごとく、かつてはその先まで続いていた頃があったようだ。
それが小島新田駅〜桜本駅(停留所)間だ。
当初その区間は京急が管理していたらしいが、後の管理は川崎市電だった。
なお、塩浜東線については、その区間が現役だった頃に門型鉄塔で塩浜変電所まで続いていたらしいが、その区間が廃止となった昭和45年(1970年)頃には、塩浜東線は除却されたようだ。
唯、塩浜東線については、一部、塩浜東線16号鉄塔で、その当時の線路があった頃から偶然にも除却されずに済んだものもあった。
偶然残ったのは、川崎発電所(JRのものとは別)を起点とした、千鳥町線2号線、塩鳥線1号線(過去には2号線(停止)も)を塩浜変電所の直前で支えていたからである。
しかしそれも今は、塩鳥線5号鉄塔に代わって、除却(建て替え)されている。
現在、塩鳥線となっている一部区間も、元は千鳥町線となっていたが、千鳥町線は現在、千鳥町線11号鉄塔で、千鳥町線1号線が千鳥町線2号線へ合流しているので、合流地点以降で塩鳥線へ電線路名が変更されている。
同様に、塩鳥線2号線も同鉄塔で塩鳥線1号線へ合流しており、そこがたまたま1号線として残ったから、現在、合流地点以降の電線路名は塩鳥線となっているようだ。
(※最上部に例え、千鳥町線2号線が残っていたとしても、電線路名は下段に残った塩鳥線1号線を優先するようだ。)

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