<榑坪線・写真ギャラリー その1>

若番方面では、初代と思われるカーネギー製鋼材を使用した送電塔が目立つ。
唯そのほとんどは山の中を通過しており、近づけそうなのがない。
お勧めな撮影ポイントは、富士川クラフトパーク
ここには展望台もあり、そこからもパノラマなどいろいろな撮影が可能。
唯、暖かい時期は山ヒルが生息しているようであるから、あまりお勧めしない。

富士川クラフトパークで撮影した榑坪線23号鉄塔

ここでは改めて拡大写真を見てみよう。
腕金の部材の少なさとあの形は、猪苗代旧幹線に見えなくもない?

懸垂がいしの個数はたったの5個連
少ない感じがするが、山沿いの内陸部ではこれで十分なのだろう。

正面はこんな感じ。

年式については、大正9年(1920年)1月を示していた。

続いて、吊り橋を横断し、身延町しだれ桜の里付近から撮ったものをアップしよう。
ここでは小さめな展望台もあるため、そこからも複数基望むことができる。

左側には早速、次の24号鉄塔が見えてきた。
なお、耐張鉄塔については、架空地線支持の三角帽子は嵩上げされている感じに思えた。
これはどこの旧鉄塔も一緒。

吊り橋横断後に振り向いて撮った先ほどの23号鉄塔

園内を散策すると左下に下がれるところがあり、24号鉄塔に近づくことができた。

一方その次の25号鉄塔は、送電塔の嵩上げがされているようである。

ここで確認できたプレートの年式は、昭和36年とあったが、これはその送電塔の嵩上げ時期であろう。

半周だが、パノラマ撮影はこんな感じ。

 

<おまけ・榑坪線のがいしのかけら>

ここでは、榑坪線の竣工当初のものと思われる、がいしのかけらもアップしてみよう。

1つは日本ガイシさんの製造品で

三角形の中に特別高圧ピンがいしの絵柄が描かれた相当昔のものだった。
それはといえば・・・
なお、製造年は1924年(大正13年)の模様で、これは榑坪線ができた大正9年(1920年)と比較すると、4年遅いものであることがわかる。
また、同電線路では、比較的若番方面では、猪苗代旧幹線と同じアメリカのカーネギー(CARNEGIE)製の鋼材を使用していたようであることから
当初は懸垂がいしに関しても、アメリカ製を使用していたようなことが考えられた。
実際、猪苗代旧幹線もそうだった。そこではトーマス社製のがいしを使用していたようだ。

がいし裏面のヒダの枚数については、こちらは現在も主流である4枚ヒダだった。

次いで2つはメーカーまでは見えなかったが

裏面をひっくり返すと5つのヒダ仕様であったから、これもまた当時物に思えた。
現在は4つのヒダが主流だが、以前は確かに5つのヒダもあった。
がいしのヒダの枚数については、昭和初期辺りに変更されている。
それにしてもこれらのがいしのかけらは、何か落雷による逆フラッシ―オーバーでがいしが割れて、破片がそのままとなっていたのだろうか?
※なお、このがいしの観察直後、私が歩いた振動に反応したのだろうか、ヒルががいしに張り付きだした。
人間が触った後のものにも吸着する生態があるのだろうか?
しかも、足でいくらつぶしても全然つぶれなかった。
恐るべし!
筆者は、今回はなんとか吸血されずに済んだ。
ヒルには1度も吸血されたことはないが、ぼーっとしているとすぐにでも被害にあいそうだ。
十分に気を付けたい。
撮影に関しては、行くならやはり真冬がお勧めだ。

<おまけ>

日本ガイシさん製造のがいしの初期のロゴのモデルになっていた、特別高圧ピンがいし10号の実物

それはといえば、これは正しく!早くて明治後期!遅くて昭和30年代頃まで普及していた、特別高圧ピンがいしの絵柄である。
猪苗代旧幹線が建設される前の送電線では、このがいしによる送電線の支持が主流だった。 大体これは、昭和30年代前半頃まで見ることができた。

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